今回の感想はギレルモ・デル・トロ版です。私はフランケンシュタインにはそんなに詳しくなくて、昔ロバート・デニーロが「怪物」役を演じていた1994年版くらいしか見ていないですね。なので、感想としては本当にこの作品単体でしか語れなかったりします。
アメリカ映画における脚本の法則として、「共感できる、もしくは共感出来ない主人公が追い詰められ、殻を破り反転攻勢をする」に準拠するならば主人公は「怪物」なんですよね。
で、本作は原作に忠実な展開らしく、怪物の創造主たるビクター・フランケンシュタイン(オスカー・アイザック)が怪物の追われたところを北極圏を目指す船に助けられ、そこで自分のここまでのいきさつを話すところから始まる。
優秀な医者で息子に対して厳しい父と、愛情のある母親の元で生まれ育ち、途中母親は弟を生み死亡。父親の愛情は弟に注がれるも、やはり父親も死んでしまい裕福だった家庭も崩壊する。ここで彼は生命のはかなさを思い知り、不死の探求を目指すという、要するにビクターのプロフィールが語られる。
そしてそんな経緯もあって彼は怪物作りに邁進することになるんだけど、中盤過ぎまでそのいきさつがたっぷりと語られる。その途中で弟ウィリアム(フェリックス・カメラー)の婚約者エリザベス(ミア・ゴス)に横恋慕したり、そもそも死体を寄せ集めて不死の者を生み出そうと企てるので、彼は共感出来ないキャラクターであることが分かる。そう、もちろん本当の怪物は作中のキャラクターが彼に指摘しているようにビクターな訳だ。
で、怪物を生み出すシーンだけど、不死の存在を創るという「神に対する反逆」を企てているのにも関わらず、その誕生に稲妻というある意味「神の御業」を借りなければいけないというのがひどく矛盾している。
その最中にスポンサーである武器商人ハーランダー(クリストフ・ヴァルツ)を事故で死なせてしまったのに怪物のせいにしたり、怪物に言葉を教えるのが下手なのに物覚えが悪いといって苛立ち怪物に体罰を加えるという、自分が父にされた「抑圧移譲」を行う場面といい、本当にとことんだめな奴として描かれる。
ビクターが「怪物を生み出すことばかり考えて、その後の事を考えていなかった」というのが普遍的な寓意で、これはテクノロジーへの無邪気な信頼の果てに自分ではもはやテクノロジーをコントロール出来なくなってしまった我々現代人にも十分に当てはまっていて、「オッペンハイマー」や「ハウス・オブ・ダイナマイト」にも描かれていますね。
でも本作のテーマは実は違っていて、信じられないことに「赦し」だったりする。「共感出来るもしくは共感出来ない主人公が『殻を破り』反転攻勢する」という展開では、怪物が海に沈んで「氷を拳で突き破り」、父であり創造主であるビクターを問い詰める(反転攻勢)。翻って、今度は追い詰められた共感出来ないキャラクターであるビクターが『殻を破る』。ここでいう「殻」は、おそらくは自分の過ちを心から認めて怪物に「本当にすまなかった」と謝罪するところだと思う。
そして怪物は頑迷な船長によって北極圏到達という無茶なこと(テクノロジーの妄信のメタファー)をやめ、船が祖国へ帰る手助けとするという善良さを発揮する。
「父と子が争い和解する」という点を抜き出すと「シン・エヴァンゲリオン劇場版」でも描かれていたけど、監督にギレルモ・デル・トロはエヴァを見ていないはずは無いので、思うところがあったのではないかと考えます。
まあ怪物や怪獣が大好きなデルトロだから、こういう異形なるものへの優しいまなざしを感じさせる終わり方にしたのでしょうけど。