映画「さらば、わが愛/覇王別姫」

 「え、こんな有名な映画まだ見てなかったの?」シリーズとでも申しましょうか、私そういった「積読」ならぬ「積映画」がいっぱいありまして、本作もその一本。今回ようやく視聴しました。

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 上映時間約3時間にもなる長編ですが、脚本が上手いのでまったく退屈はしませんでした。まず導入部が1時間近くて、映画の舞台となる日中戦争突入前の中国と、3人の主要登場人物の紹介、そして劇中劇にであるタイトルにもなっている京劇「覇王別姫」の内容説明がされる。

 

 「覇王別姫」ですが、国語の教科書にも出て来る項羽と虞美人の別れの一幕を演劇にしたものですね。

 

 どこの国でもそうなんでしょうけど、芸能の世界は周辺化された存在の受け皿として機能していて、主要登場人物である蝶衣・小楼・菊仙もそういった出自。そこで受けるスパルタ教育がひどくて、それを苦に自殺者がでるほどなんだけど、師匠の稽古が厳しいのもうなづけないことは無くて、お客さんに受けなければ生活が出来なくなるという、非常に切実な状況にあるからああしているのだとは理解できます。

 

 3人は成長し蝶衣と小楼は京劇の売れっ子になり、菊仙は自分の母親の職業でもある娼館につとめることに。

 

 この映画の情報を一切知らないでいると、このあたりで蝶衣が抱えるある秘密が垣間見えるのですが、あまり直接的には描写されない。菊仙に想いを寄せている小楼は、求婚しそれを受け入れる。あからさまに不機嫌になる蝶衣なんだけど、要するに彼は同性愛者で彼は小楼に想いを寄せている訳だ。で、単純なまでに異性愛者である小楼はそのことがまったくわからないでキョトンとする。虞美人を演じる蝶衣が役を離れても項羽を想う虞美人から抜けきれないと思っている鈍い奴。

 

 ここらへん、小楼を巡って恋のさや当てみたいな状態になっている。

 

 時代の映り代わりと共に統治者が変わるのだけれど、周辺化されている存在である3人は虐げられることには一切変わりがない。ここで「覇王別姫」が効いてきていて、いつまでたっても四面楚歌な訳だ3人は。

 

 で、終盤になってあの悪名高い文化大革命が起こり、暴力で脅されてしかたなく小楼は蝶衣を売り、その仕返しみたいに蝶衣は菊仙の出自をばらし、菊仙は自ら命を絶ち3人の人間関係はズタズタになることでタイトルが回収される。

 

 フード理論が出て来て、それは「盃」。小楼が菊仙に求婚する際にそれを受ける形で菊仙が渡された盃の酒を飲み干す。逆に小楼を菊仙に取られ(NTR!)た蝶衣は菊仙が差し出された盃を拒絶することからも、ふたりが相いれない関係であることがその時点で示唆されている。

 

 私的にはこの作品を今になって見ると、「歪んだリベラリズムの批判」と受け止めますね。文化大革命にしろ大東亜共栄圏構想にしろ、一部の人間が考え出した「妄想」に過ぎず、ひどく観念的な思想なので大衆はそれを理解できないししない。そしてそれが権力を持ってしまったので従っているフリをしているだけ。

 

 結末はみなさんが知っての通りで、とんでもない被害をもたらした訳だ。

 

 もうこの時既にリベラリズムというものが持つ欺瞞が示されていたのですよ。エマニュエル・トッドの「西洋の敗北」にしろ、パトリック・J・デニーンの「リベラリズムは何故失敗したのか」にしろ、リベラリズムが達成されると強権的で抑圧的な思想が破壊されると同時に、そこにあった暗黙知や倫理・道徳規範も併せて破壊され「ゼロ宗教状態」になる。

 

 合理的思考という名の「損得勘定」だけがはびこり、人々は利他行動が取れなくなり自滅していく。終盤の光景がそれを象徴しているかの様に見えて仕方がありませんでした。